西日本の柑橘系農家での戦後の暮らしの実態
両側を工業都市に挟まれ海に面している地方の、西日本の柑橘系専業農家の戦後の暮らしの実態です。1945年から2000年にかけての暮らしを記述しています。
母は「農家は現金収入が少ないから慎ましい生活だった」と言っていますが、父いわく「そんなことはないぞ。」
また、私の知っている内陸部の別の地方の農家の暮らしなどと合わせて考えると、決して「お金がない」農家では無かったようにも思えます。
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・少なくとも1974年当時くらいまでは葬儀は近隣住人総出で、料理などのも彼女たちが作り、執り行っていた。(私の曽祖父の葬儀の際、そのように行なった)
・西日本ではあるがサトウキビを作っていた。
それらは地域の共同作業所に運ばれ、そこで製糖作業を行い、一斗缶に詰めて持ち帰っていた。
・現在祖母が住んでいる「離れ」は私にとっての曾祖父母が住んでいた。
現在叔父の工場が存在する部分には以下者が存在した。(母の話)
(現在の入り口とは反対側の奥のほうから記述)
- 柑橘系植物
- ヤギ小屋(乳を取るために飼っていた)
- 井戸
- 花壇
・現在のコンクリ舗装の部分はもともとは農作業場所であった。
(私の小さい時に人参を選別していた記憶がある)
・現在の風呂場と離れはつながっていた。(トイレを共用にしていたとのこと)
・風呂場の別館の隣の部屋に母と母の姉が一時期暮らしていたとのこと(母が18-20歳当時?)
・祖父は8人兄弟の長男であるが、8人中男は2人のみ
・祖父は新しいもの好き(ハイカラ…。)で、概ね当時の最新家電を取り揃えていた。
・母は1964年のオリンピックをテレビで見た?らしい。
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「デンスケ」タイプのテープレコーダーが存在した
・当時、米は農協に全量納めていた。
・母は1970年の大阪万博に祖父母と大阪に行っている。その際に、母の姉の家に泊まった、とのこと。
・母は高校卒業後、隣の市の和裁の専門学校に1年間通学している。
・現在の祖父の工場は1974年当時は叔父の工場であったが、一旦廃業後、物置として使用された。
農家の物置として使用した際は以下のようにして使用された(私の記憶)
- トラクター
- 米の乾燥機
- 玉ねぎの選別所
- として使用された
・祖父が倒れた後に再度、叔父の工場として改装された。
私から見た記憶
・私の記憶では祖母の家には以下の農機具が存在した(1990年前後)
- トラクター(耕うん機)
- コンバイン
- 田植機?
- エンジン付き一輪車
- クローラ型運搬車
- 稲籾乾燥機
- 唐箕(とうみ)
なかなかこういった「誰もが覚えていそうな情報」というのは、きちんと残らないので、今のうちに残しておこうかと。その情報が失われてからでは遅いので…。
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