実体験としての祖母に聞く、先の戦争で地方での暮らしの実態。

かつて私が2007年12月に祖母に聞書きした記事となります。祖母の家は西日本の瀬戸内海に面した地方にあります。

祖父の命日にお参りに行きました。仏壇に手を合わせたあと、祖母と色々と話しをしていたのですが、戦中戦後の暮らしぶりなどの話しを聞く事ができたので今回はそれを書こうと思います。

先の戦争については様々な議論がありますが、それらの議論は別にして、当時何が生活の場で起こっていたかの事実を風化させる事なく次世代へ伝えて行く事が我々の世代の役目であると考えています。

生活背景について

祖母の家は所謂のどかな田舎の農業地帯にある農家です。(数年前まではコンビニまで一時間(苦笑))ただし、両側に隣接する市は工業都市です。祖母は2007年当時で83歳、終戦時には二十歳過ぎ位の年齢です。


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戦時中の生活について

・祖父と祖母は「K社」で出会い、祖父が文通で口説き落とした、とのこと。(祖父は農家を継ぐためにすぐに退職した?)※2016年8月29日追加

・祖母がお嫁さんとして、この地に来た時に一家で六畳間で子供を育てた事。
(ただし、この家の六畳間とは京間のフルサイズの畳なので、現在のアパートに換算すれば8畳位の広さです。)

・祖母は戦争中、戦闘機(B29?)に機関銃射撃を受け、命からがら橋の下に逃げ込んで事無きを得た
※恐らくは、両側の工業都市を攻撃するための爆撃機が通過する時に行った事だと思われます。

・戦争中、灯火管制が行われ、ランプにシェードをつけたために、ランプの下以外は真っ暗。

・戦争中、子供の多い家の子供たちは兵隊に志願したが、かなり数の祖母の知っていた人が亡くなった。

・当時はお米を食べるのではなく麦を食べていたのだが、麦は柔らかくするために最初に茹でた後で米のように炊くので、手間がかかった。それらはかまどで調理した。また、稲の茎をかまどの燃料としたため、すぐに火が消えるため、常にかまどの前に居なければならず、非常に大変な作業であった。

・祖母はお嫁さんとしてこの地に来たので、誰よりも早く起きての麦飯炊きなど、非常に大変であった。

・祖父は8人兄弟の長男で(!)、祖母はそれらの兄弟の小姑と非常に関係で苦労したとのこと。 ※2016年8月29日追加

・祖父も戦争に行っていたが、その事実を子(つまり私の母)、孫にはほとんど何も語らなかった。 ※2016年8月29日追記

・終戦直後、買出しの列車に乗って農家の祖母の家まで農作物を買出しに来る人が居た。ちなみに、最寄の駅から祖母の家までは現在でも徒歩30分は軽くかかる。(で、二番南瓜などを売ったとのこと。)

・買出しに来る人は女性が多かった。(旦那さんは工場にお勤め。)

・戦後の農地解放により、祖父は自分の土地を得たこと。(これは祖父が存命中に聞いた)

・祖母が現在住んでいる家は当時の福村長の家を買い取り移築された家である、との事。

・終戦後10年くらいは農業の機械化は行われず、近所、一家総出で田植えなどを行った。
(ちなみに母も学校から帰った後などは当然、手伝ったらしい。母曰く、「すごく嫌」だったらしいが…。)

・当時は当然井戸の水を仕様した。現在はその上に鉄板を敷いてコンクリートで固めてあるが、ちょうどその上に叔父の工場が建っている、らしい。

・1974年前後に現在の祖父の工場の「初代」が存在した。その後、一旦廃業したが、祖父が倒れた後に再開した。


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※2016年8月29日追記

・戦後、乳を得るためにヤギを何匹か飼っていた。

・戦時中、戦後、祖父の家には最盛期には8人以上住んでいた。当然、その中には祖母とソリのあわない人物も居て、(故人の名誉のため誰かは書きませんが…。)
祖母曰く、
(当時の農家はそれほど豊かではなかったので)
「列車賃さえあれば実家に帰ろうかと思っていた」
らしい…。

先の戦争の呼び名について

祖母は戦争の事を
大東亜戦争
と普通に言っていました。
…。
やはり当時をリアルタイムで過ごした人にとっては、その呼び方が正しいのですね。
けれど、祖母はこうも言っていました。
「戦争は良くない」

私の当時の感想、追記

本などで知識として知っていた事もあったのですが、自分の血の繋がった祖母が体験した歴史、と言う意味では非常に身近に感じる事ができました。まさか、あの、のどかな祖母の家の地でもリアルな戦争が関わっていたのかと。


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