仏教の精神を実行した者のとしての山頭火

山頭火という俳人かなり好きだったします。

この山頭火、一言で言ってしまえば「人間失格」と言ったでしょうか。(失礼…。)

山頭火とは、全国を托鉢(=町ゆく人々から施しを受けながら)しながらふらふらと放浪しながら俳句を作った、という人と認識してもらえればいいと思います。

彼は生活の糧とすために、仏教における托鉢行為を行っていました。


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托鉢という行為と俳句を読み、人生を切り取るという行為、そしてその俳句の中に読まれた人間の無常性。それはある意味では、原始仏教における釈迦の行為に近いものがあるのではないかと考えます。

根本的な考えでの仏教とは、天国や極楽などの、即物的な現世利益を求めるものではなく、悟りを開くことにて輪廻の輪を外れることを目的とした、意味極めて哲学的な考え方だったりします。

(なぜそれが極楽や地獄、戒名といったものに考えが変わってゆくのか、ということはまた別の機会にでも)

ちなみに、山頭火、酔っ払って路面電車を進行妨害して、報恩禅寺という寺に一時期預けられるわけですが、その寺は曹洞宗の寺で、曹洞宗は座禅を基調とする、割と原始仏教に近い考え方が残っている寺、とも言えるかもしれません。


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また、妻や子を捨てて出家する、という行為は仏陀の行為そのものと重ね合わさる気すらします。

山頭火というと、俳句という、極めて日本的、土着的なイメージを持って語られるのですが、その行動においてはかなり根本に近い仏教的な背景があったのかもしれません。


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